ベートーベンの小径

平成23年6月19日 
泉 宏佳(S.38年卒、第14期)


 僕は橋南の竪町出身で雑賀小、松江四中そして松江高校に入学し、北高を卒業した。橋南は次の年から南高の校区となったから、橋南から最後の松高生となる。同じ町内に仁多三成から越境入学してきた男がいた。森田六朗という。文字通り6番目で、兄さんの職場の借上社宅に同居しており、兄さんは仕事で何時も夜が遅かったから、必然的にたまり場となった。彼は7人の兄姉の末っ子で、父親を早く亡くし、兄さんたちが学資を出してくれていたが、一番上の兄さんは苦労人で、早くから家業を継ぎ、下の2人の弟を早稲田に進学させてくれたのだった。

 一方で、仁多で弦楽四重奏団を結成するなど洒落た人でもあったが、その影響からか彼はクラシックに造詣が深く、クラシックなど縁遠い百姓・職人の末裔である僕は面食らった。そこには横60センチ、縦1メートルほどの手造りのスピーカーがドンと置いてあり、レコードも沢山あったが、彼が一枚一枚丁寧に埃をふき取り、レコード針を下ろすときには、息を詰めてジッと回転する盤に目を凝らして静かに下ろしていくのを僕は身を硬くして見つめていた。

 当時四中から普通高校に入るのはクラスで5,6人で、僕は他校からの学生と交わるのが楽しみだったが、彼は自ら"仁多の山猿"と称して憚らなかった。その気さくさと下宿の近さとでたちまちお互いに入り浸る関係が生まれた。彼は英語が得意でフルブライトもパスしていたが、片親ということで落とされてしまった。僕は理数のほうが好きだったからすみわけも出来た。この頃の話題といえば当然、好みの女の子の話となるが、彼は当時の女優で言えば「団玲子」が好みといい、僕は当時デビューしたての「岩下志麻」が好みで、この面からもすみわけが出来た。お互い腹の底で、蓼食う虫も好き好きだ、と思っていた。

 この頃よく聴いたのが、ベートーベンの"ロマンス"だった。バイオリンはヤッシュ・ハイフェッツ。今でも売れている名盤である。ひたすら聴いた。下宿定番のバックグランドミュージックといったところ。女の子を話題にするとき、これほどお誂え向きの曲は無い。レコードが話題を誘うのか、話題が曲を選ぶのか、"ロマンス"はあの気難しい顔のベートーベンからは想像もできない甘い曲だ。華麗なメロデーのヘ長調、一寸内省的なト長調、この2曲にどっぷり浸かった青春だった。もちろん聴くだけではない。あっちこっちに手を出しては振られていた。そしてまた"ロマンス"を聞いては虫が騒ぎ出し、ちょっかいを出すのだった。たまにブッキングして白けることもあったが、ああ、青春!ベートーベンの"ロマンス"は思い出のメロデーだ。

 大学は僕は広島、森田は東京に分かれたが、社会人となると、また九段下と神保町で、ことに終わりのほうでは神保町同士で、歩いても5分と掛からない近さ。出雲蕎麦でお昼を食べ、"サボール"でコーヒー、は定番だった。"ロマンス"からはほぼ半世紀、当時の「雨夜の品定め」とは全く関係なく、今はそれぞれが適当な鞘に納まった。

 僕が最初の会社を退職したのは10年ほど前だが、嫁さんには毎年一回はヨーロッパに行こうと約束した。何年目かにウィーンに行った。といっても、語学力などないからツアー旅行で10日間ほどの旅である。中で1日ツアーを外れ、自由時間をとって仕事柄、団地を見学に行った。ウィーンには桂離宮を再評価した建築家ブルーノ・タウトの設計したカール・マルクス・ホフという団地があり、これは赤羽台団地のモデルだが、この団地がウィーンの郊外にあった。市電に乗って終点、ハイリゲンシュタットで下り、型どおり団地を見学して写真など撮った後、旅行案内書を見ていると、ハイリゲンシュタットには引越し魔のベートーベンの住んだ家があちこちにあることがわかった。

 道行く人に尋ねたりしながら、たどり着いたのが、聴力を失ったベートーベンが"ハイリゲンシュタットの遺書"を書いた住まいだった。中庭を囲むテラスハウスの、壁沿いの階段で上がる2階の部屋。思いがけない遭遇だった。デスマスクや楽譜、小さなピアノなどが置かれていた。なんでも彼はかなり恋多き人間であったそうだから、ここでもきっと沢山のラブレターを書いていたに違いない、などと考えながら外に出ると、ベートーベンも歩いていただろう界隈をうろついた。そして小川に出た。幅7,8メートルほどで、道からは2メートル下の草群れの中に小さな川が流れていた。その小川の両側の道は、散策には適当なちょっとした木立の小道だった。そして歩いていると、途中、ふと看板が目に付いた。目を凝らして読むと「ベートーベン シュトラッセ」、"ベートーベンの小径"とあった。何だか嬉しくなってなお歩いていくと、やがて住宅が途切れ、青空と畑の続く田園地帯があった。僕の頭の中に交響曲第6番「田園」のメロデーが広がった。ベートーベンにとって癒しと希望の小径だったのだろうと考えた。


ハイリゲンシュタット郊外の田園風景(?)

 後で聞くと、この頃 森田はプラハにいた。彼が下宿していた、たまり場の主の兄さんが癌でなくなり、兄さんが好きだったドボルザークの故郷に、遺影を持って訪れていたのだった。

 7人の兄姉兄弟の森田だが、何故だか兄さんたちが皆、早く亡くなり、これが彼の頭を悩ませていた。彼にはやりたいことがはっきりしていた。定年よりかなり早く会社を辞めると、東洋哲学専攻の彼は憧れの北京に渡った。そしてもう7,8年の時が経つ。大学で日本語を教えながら、剣道の竹刀を持って道場に立ち、学生達を指南している。僕は時折、日本の商社に就職する留学生のお相手を頼まれたりする昨今だが、その彼から連絡があり、留学生向けに日本語についての本を出版した、ということだった。まだまだ頑張っている67歳だ。

 仕事柄ヨーロッパに傾斜する僕に対し、森田はすでに軸足を中国に移している。しかし、棲む世界が違っても、帰国すれば必ず一献傾ける。今夏は、久しぶりに松江に帰省し、宍道湖岸でも歩きながら、往年の美女談義にでも華を咲かそうかと話している。こうして何年か経ち、そのときに聴こえてくるのはベートーベンの交響曲第5番「運命」なのか第9番「合唱:歓びの歌」なのか、いずれにしろ穏やかに「田園」の気分で歩き続けたいと願っている。

 「なお、文中の挿画は東京書籍「ボヘミヤ・ベートーベン紀行」(著者:青木やよひ)から引用している」


(注)多少の間違いや思い違いがあるかもしれませんが、ご容赦願います。
 (追)本を紹介します。日本の若者にも十分読ませます。是非どうぞ。
 著 者: 森田六朗 (昭和38年卒、第14期)
 書 名: 「日本人の心がわかる日本語」
 出版社: 株式会社 アスク出版
 定 価: 1600円