バイオリニスト玉井菜採さんに魅せられて

平成21年7月11日 
新谷智人(昭和31年卒)


2009・5・28付読売新聞
 5月の新聞は玉井菜採(なつみ)さんが古典の日のイメージキャラクターにえらばれたことを報じていました。6月には、早くも、古典の日推進委員会に出席されているところを載せていましたし、これからポスターなどでお目にかかることもあるでしょう。古典の日は、源氏物語がはじめてあらわれてちょうど1000年目になる去年の11月1日を記念して京都府がさだめたもので、この日を期して古典に親しんでもらおうということのようです。
 菜採さんは、桐朋学園を卒業後ヨーロッパで勉学を積み、数々の国際コンクールで、優勝、準優勝、高位入賞を重ね、いまは、東京藝大の准教授として後進の指導にあたるかたわら、各地で演奏活動を続けている気鋭のバイオリニスト、ところで、この私は、彼女が東京で演奏するときの追っかけおじいさん、という関係です。
 なぜおよそ芸術の世界から最も遠いところにいるおじんが、いまをときめくバイオリニストのおっかけをはじめたか、彼女は京都の出ですが、そのお母さん玉井、もとの名は中島、洋子さんは、松高の7期の同期生、中島洋子さんが、バイオリンをやっておられるのは知っていましたが、話をしたこともなければ、その演奏を聞いたこともありませんでした。そのころ、国際文化観光都市松江で、クラシック音楽を聴こうとすれば、NHKの音楽番組か、電蓄のあるクラスメートに接近して何とか友達になり、そこでスティール針をなんども取り替えながら、何枚も重なったSP盤にうっとり耳を傾けるぐらいしか方法はありませんでした。だから、バイオリンを生で聴くなど想像もできない、ましてそれをみずから演奏することなど、実に神秘的に思えたものです。
 大学に進むと、いつも、土手の桜の木の下の芝生に寝そべって、遠くから、バイオリンのケースを小脇に抱え、キャンパスを横切って、音楽高等課程の教室に通う中島洋子さんの姿を見ながら過ごすことになりました。あの黒革のケースの中の楽器を取り出して、どういうふうに演奏するのだろうか、どんな音色が出てくるのだろうか、いちど言葉を交わしてみたいなと考えながらそのまま4年がすぎ、いよいよ卒業というとき、音高の人たちの卒業演奏会がひらかれました。このときやっと、生のバイオリン、彼女の演奏を耳にすることができたのです。
 それは、やはり衝撃的でした。演奏会は、その頃の松江にははほとんどなかった鉄筋コンクリート3階建ての公会堂、2階席から耳を澄ますと、しなやかな指が弦を押さえ、小柄な彼女の腕が上下して弓を弾くたびに、時にしっとりと、時に朗々と、時に飛び跳ねて、しのぶように、粘りつくように、ひびきわたるように、むせぶように、逃げ出したかと思うと寄ってくる、さまざまに音色を変えながら、メロディーが流れわたってきます。同じ年齢なのに、こんなに人を感動させる音を作ることができるなんて、と帰り道、大橋の袂のトリスバーでなかまたちと話し込んだのを覚えています。

松江市公会堂(1934年新築開場〜1968年解体)
 中島洋子さんの演奏を聴きたいという思いはこのとき達せられましたが、話をしたいという方は達せられないまま、彼女は京都市響に入られ、同じバイオリニストの方と結婚されたということを風の便りでききました。それから何十年、そしてある日、松江で開かれた同窓会で、隣り合わせの席になったのです。
  私はすっかり気持ちが高ぶって、あれだけ話をしたいと思っていたのになかなか言葉が出ない、やっと名前をいって、少しでも会話がつづくようにと、貧しい知識を振り絞って音楽の話を無理してしようと苦労していると、そんなに音楽がお好きなら、娘の菜採がコンサートを時々やっていますからどうぞとご案内を受けたわけです。大汗を掻いて、それは願ってもないこと、一も二もなく喜んで、ということで、おっかけやさんに仲間入り。
 はじめは代官山のコンサートホールだったでしょうか、このときは、行く途中の渋谷からの電車で、偶然にも同じ車両にお母さんと乗り合わせ、ハッピーだったですね、バイオリンのライブなどそれこそお母さんの卒演以来、まして、観光文化都市ではないけどいやしくも首都、そこの本式のホールでの演奏会など初めてだから、期待はいっぱいだけど、マナーの心得がないから不安もある、主催者の挨拶が終わると菜採さんが左手にバイオリン、右に弓を持ってすすっとステージの中央に出てきて、音の調整をちょっとやったかと思うと、何の口上もなく、いきなり演奏に入りました。ヘエー演奏会とはこういうものなんだと感心していると、あとは気品あるつややかな音色がホールにみちわたるばかり。もともと集中力薄弱で、どんなエキサイティングなテレビドラマを見ていても、何分とたたないうちにうつらうつらとしてしまうのに、菜採さんが、名器ストラディバリウスを自在に操って繰り出す音曲を聴いていると、何十分もの演奏時間、どのような睡魔も寄せ付けず、快い境地を楽しむことができました。子供の頃、魅せられたという言葉に行き当たり、この言葉そのものに魅せられたのですが、魅せられたとはどういう状態か思い至らないままに時を過ごし、このとき始めてこれが魅せられたということなのだなと納得、泡立つ黄色の液体を友人らと囲んで過ごす時間も何物にも代えがたいものですが、それと同じぐらいの時間、同じぐらいのコストで、魅惑の境地に浸ることができるとなれば、このときは、何のためらいもなく、黄色い液体はバイバイ、それからは、所沢、狛江、代々木、浜離宮ホール、王子ホール、FMホール、奏楽堂と都内のコンサートホールを菜採さんの公演があると追っかけまわしはじめました。時には、彼女のミュンヘン時代の師、アナ・チュマチェンコさんが来日しての演奏にもゆき合い、師というものの偉大さをまのあたりにすることもできました。
 音楽通の人には当たり前のことかもしれないけれど、素人の私がまず驚いたのは、菜採さんが、ピアノの伴奏もなしにいきなり始めたこと、伴奏なしとは、いうなれば、カラオケなしで歌うことでしょうか、いくら歌いなれたやさしい歌でも、カラオケなしではむつかしい。歌える人はよほど自信のある人でしょう。伴奏なしで弾くことだけでも菜採さんの実力を示すものだろうし、菜採さんの演目は無伴奏というのが多いことからも大変な力量なんだなと自分なりに思うわけです。それと、何十分もの大曲を譜面を一切見ずに弾ききってしまうのにもびっくりしました。お母さんにそのことを話したら、譜面が写真のように頭の中に浮かぶみたいですねといっておられました。何年も英語の勉強していても、簡単な文章ひとつ頭に浮かばない輩などには想像もできないこと、もって生まれた才能の違いか、幼少の頃からバイオリニストの両親から指導を受け、厳しい修練を積み重ねてきたからなのか、おそらくその両方でしょう。
 お宝は、自分が気に入って、眺めて、観賞して楽しめばそれで十分、といっても小人の性の悲しさ、どのぐらいの値打ちなのか確かめたい気持ちが片隅にあります。しかし悲しいかなその目というか耳はない、そこで、松高3期、NHKの音楽ディレクターをしておられた目利きではない耳利きの先輩岡弘道さんに聞いてみました。そうしたらただ一言、あの人は大物です、ということでした。菜採さんのスケジュールは、彼女のホームページ、音楽情報誌ぶらあぼのホームページなどから入手できますし、チケットもプレイガイド、ネットなどの通常の方法、さきのぶらあぼうでのコンサート検索で入手可能です。場合によっては、追っかけおじいさんがやってくれるかもしれません。これからおっかけたいかたはどうぞ。

最後に菜採さんからのメッセージ
目指していること・・・。
作品の奥深い世界を音として表現すること。
そのために、想像力、理解力、美しい音、多彩な音、語り口、説明できない何か、さまざまなものが必要なのです。それを探し続けるのが音楽家です。
そして音楽は言葉では説明できないことを表現できる可能性を持っていると思います。
また、さまざまな感情をわきおこさせる力を持っていると思います。

玉井菜採さん

玉井菜採さんのプロフィル

京都に生まれ、滋賀に移り住んだ4歳よりヴァイオリンをはじめる。桐朋女子高等学校音楽科を経て、桐朋学園大学卒業。東儀祐二、小国英樹、久保田良作、立田あづさ、和波孝禧の各氏に師事。
在学中に日本音楽コンクール入選、プラハの春国際音楽コンクールヴァイオリン部門第1位入賞、併せて審査委員長特別賞であるヨセフ・スーク賞を受賞。
桐朋学園卒業後、アムステルダムのスヴェーリンク音楽院にてヘルマン・クレバース氏に、また、ミュンヘン音楽大学にてアナ・チュマチェンコ氏に師事。この間、J・S・バッハ国際コンクール最高位をはじめ、ポストバンクスヴェーリンクコンクール第1位、エリザベート王妃国際コンクール第5位、フォーヴァルスカラシップ・ストラディヴァリウスコンクール第1位、シベリウス国際ヴァイオリンコンクール第2位など、数々のコンクールに優勝、入賞している。
これまでに、ソリストとして、ブルノフィル、ロイヤル・フランダースフィル、ベルギー放響、ヘルシンキフィル、ロシアナショナル管弦楽団、スロヴァキアフィル、N響、日本フィル、京響、大阪センチュリー交響楽団、関西フィル、大阪フィル等、国内外のオーケストラと共演。ヨーロッパ各地、国内でリサイタルを開催。また紀尾井シンフォニエッタ東京、東京クライスアンサンブルのメンバー、アンサンブルOFトウキョウのソロヴァイオリニストとしても幅広く活躍している。
現在、東京芸術大学准教授。2007年度まで芸大フィルハーモニアのソロコンサートマスターもつとめた。
平成9年度滋賀県文化奨励賞、平成12年度平和堂財団新進芸術家助成、平成14年度文化庁芸術祭賞新人賞、関西クリティッククラブ奨励賞、ABC音楽賞クリスタル賞、京都府文化賞奨励賞など多数。