平成27年度東京双松会”第60回総会・懇親会”報告

平成27年11月18日

去る10月17日、アルカディヤ市ヶ谷において第60回東京双松会総会が開催されました。戦後10年に第1回が開催されて以来、会の維持・継続にご努力されて来た先輩諸氏に感謝しつつ、多数の参加者を得て、会の更なる発展を期するにふさわしい総会になりました。その模様を以下に報告します。


受付風景

司会 本田久子さん(昭和60年卒)


参加者名簿


式 次 第

中村事務局長の開会の宣言を受けて、芦田昭充東京双松会々長が登壇され、遠路ご参加いただいたご来賓に謝辞を述べられた後、戦後70年の日本経済の歩みを10年毎に区切って解析され、挨拶に代えられた。(概要)


芦田昭充東京双松会々長の挨拶

 東京双松会が発足した60年前(1955年)自由党と日本民主党の保守合同があった。このことはその後の日本の方向を決めるのに大きな意味があった年であったと思う。その前の数年間はあるアンケート調査によると昭和20年代すなわち1955年前までは再軍備賛成、憲法改正賛成が50%以上を占めておったそうで、私にとっては意外な事実であった。その後昭和30年代に入って世論は再軍備反対、憲法護持に変わり、経済成長の途を邁進することになった。翌年の1956年から1973年までの17年間の経済成長率は実に平均9.1%に達するという高度経済成長を遂げるに至った。その契機になったのがこの1955年の保守合同であった。
 
 次いで50年前の1965年には日韓国交正常化が実現した。それまで韓国は朝鮮戦争の影響で大変疲弊していた。因みに当時の韓国のGDPは一人当たりわずか105ドルでアジアの最貧国に数えられていた。日韓国交正常化に伴い、日本は韓国に対し3種類の賠償金を合わせて計8億ドルをキャッシュで韓国に払った。この額は当時の韓国の国家予算の実に2.5倍に相当するものだった。そして韓国はこの資金をテコにしていわゆる「韓江の奇跡」を実現した。一人あたりのGDPがわずか105ドルの韓国が50年間で約260倍の高度経済成長を謳歌するまでになったのはこの日本からの賠償金が大いに寄与したことは意外に知られていない。両国の外交交渉の中で歴史認識がよく課題になるが、この事実も尊重されるべきと思う。

 それから40年前の1975年。第1回の先進国首脳会議(サミット)フランスのランブイエで開催され、日本は三木首相が出席し、政治面でも国際的なリーダーの仲間入りを果たすに至った。

 30年前、1985年9月22日に忘れもしないブラザ合意として先進5か国蔵相・中央銀行総裁会合(日本から我が校の先輩竹下登氏が大蔵大臣として出席)で、国際的な為替調整(円高ドル安へ調整)を行うこととなり想像を超える速度で実行に移された。その結果、円の対ドル為替は240円から120円とおよそ2年余りの間に急速な円高が進んだ。日本企業はこれに対抗して海外へ拠点を移し、国内での設備投資を抑制する方向に動いた。

 20年前(1995年)、円高が対ドルで79.75円まで進み、この流れの中で日本のメーカーは、堰を切ったように海外投資をアジア各国に広げ、アジアから物を輸出するという方策を展開するに至った。したがって為替をいくら調整してもアメリカの貿易赤字の解消には繋がらなかった。これにより為替調整では貿易収支の改善はできないことが判明した。

 10年前2005年には日本人の人口が1899年の統計調査以来、はじめて自然減となった。様々な将来予測のなかで最も確度が高いものは人口推計と言われている。何十年も前から人口は減少すると予測されていたが、なんら有効な対策採られず、日本はついに人口減少時代に突入してしまったことになる。2050年時点で1億人の人口規模を維持できるようにしていかねばならないと思う。

 さて、以上述べたなかで、戦後70年を通して日本は素晴らしいことを3つほど成し遂げたと思う。一つ目は戦後の荒廃から復興と高度経済成長二つ目は高度経済成長に付随して生じた環境汚染問題の解決そして三つ目は長寿社会の実現である



芦田会長に次いで来賓の泉雄二郎校長先生(昭和50年卒)が登壇され,創立140周年を迎えんとする北高の現況の報告を含め以下のごとく挨拶された。(概要)


泉雄二郎校長先生のご挨拶

 松江中学、松高、北高の卒業生の皆さんが年に一度このように集って、互いに元気に再会されたことを喜びたい。また、第60回東京双松会がかくも盛大に開催されたことを喜びたい。昨年、私はこの場で二つのことを申し上げた。すなわち@最近の松高生はいささか元気が無い。A平成28年に校創立140周年を迎えることになるが新たな時代に向かって学校教育の在り方の転換点を迎えている。この二つの点について、その後の動きを伝えたい。

 @の元気がないことについてはちょっと元気が出てきた。というのは5年ぶりに高等学校総合体躯大会で男女総合第1位、男子総合・女子総合ともに優勝となり完全優勝を達成した。また、弓道、登山、ボート、バトミントン、陸上がインターハイに出場した。中でも女子陸上200mにスーパースターのに女子生徒(2年生)がいて、国体で2位、本日の全国ジュニアの大会で優勝が期待されている。一方、文化系では大変勢いがあって放送、美術、囲碁将棋、百人一首の全国大会に出場し、カルタでは読み手で2位になった2年生の女子がおり、来年の優勝が期待されている。更に6年ぶりに合唱部が全国学校コンクールで優秀賞を手にした。その他では地域課題研究、読書感想文、国際貢献に関する弁論大会などで全国大会に出場権を得た生徒がおり、最近の新聞に北高の名前がよく載るようになった。

 A140周年を迎える学校の転換点については来年度から10年ぶりに1学期減になり定員が40人減るということになった。現在、市内の普通科である北高、南高、東高の8・8・7のクラス編成が7・7・6になる。これからの動向を見て行くと、先ほど芦田会長が2050年問題で指摘された通り生徒が急激に減ってきており中学生の1学年の数でいうと5年間で300人減るということは北高規模の学校が1校無くなることになる。北高、南高、に加えて東高が設立されてから学区がかなり細かく設定されており、そろそろ学区を撤廃したらどうかという話も出ている。これからクラスの数のこともあって松江市の高校生の数は激減していく。北高として長年にわたり築き上げて来た実績を誇りに県下のリーデイングスクールとして一層存在感を高めて行きたい。具体的な方策としては生徒をより外向きにすることに現在取り組んでいる。すなわち、国内外に自ら積極的に出向いて世界を視野に活躍する人材育成を目指し、留学や海外との交流等の新しい教育プログラムをこれからの5年間で実践していく。そのための寄付による基金創設について現在、双松会本部とその実現に向け、協議を重ねているので皆さん方のご支援が頂ければありがたい。



次いでこの7月庄司肇前会長の後を継がれることになった金津任紀新会長(昭和40年卒)が以下のごとく抱負を述べられた。(概要)


金津任紀双松会々長のご挨拶

 この度、東京双松会が創立60周年を迎えられたことに心よりお祝いを申し上げます。

 私は初めて東京双松会の総会に参加させて頂きました。懐かしい同期の方とか、松江でお会いしている方とかのお顔を拝見しうれしく思っております。本来なら双松会の活動状況とかを話すべきですが、今日は新しく会長を引き受けた決意と自己紹介を兼ねて挨拶させて頂きます。

 地元には財団法人紅陵会というのがございます。ここは北高が新赤山へ移った時に発会し、起雲館の管理運営をしています。私はここの理事長でしたが、今回、今日一緒に出席している金平双松会幹事長にその任務を引き継ぎ、庄司前会長の後任として双松会の会長に就任しました。私自身は、カナツ技建工業という総合建設業を地元で経営しています。伝統ある双松会の会長に就かして頂いたことは、この上もなく光栄に存じますとともに、その責任の重さを痛感している次第です。

 私は、昭和40年卒の第16期生です。母校を巣立って丁度半世紀になる今年、会長就任ということで、非常に感慨深い思いをしています。又、東京双松会事務局長の中村康一さん、来賓の近畿双松会の松本耕司会長、双松会金平幹事長とは同期でございます。これも何かのご縁かと思っております。微力ですが、お引き受けした以上、双松会のさらなる発展のために、北高卒業生としての誇りを胸に母校への感謝、恩返しの気持ちをもって頑張っていきたいと思っています。

 双松会は来年創立140周年を迎えることになりますが、会員相互の交流など色々な問題も抱えております。140周年を機会に各地区の双松会をはじめ、卒業生同士の絆が深まれば、と願っています。東京に在住の皆さまも是非お時間を作って頂いて、140周年の総会へご参加頂くことをお願い申し上げます。

 このような大切な時期に双松会会長を仰せつかったわけですが、皆様方のお力添えが無ければ、この重責を全うすることは出来ません。歴代の会長の想いを継承しつつ、又時代の流れに沿った新しい視点を考慮しながら、まさに温故知新の考え方で運営していく覚悟です。

 皆様の絶大なるご支援、ご協力をお願い申し上げまして、ご挨拶とさせていただきます。

      (事務局注:金津任紀氏は、平成27年7月26日付けで双松会会長に就任されました。)



 ご来賓の挨拶が終わったところで中村事務局長の26年度の活動報告、前島紀夫会計担当の会計報告、宮城由美子幹事の監査報告があり、満場一致で承認されました。



 恒例の講演は、野崎クリニック副院長、日本医療コーディネーター協会代表理事・嵯峨崎泰子(さがさき やすこ)氏(昭和59年卒・第35期)「命を託す、主治医が見つかる:納得の医療を受けるための医師との賢いつき合い方」というテーマでお話をして頂きました。

医療コーディネーターとは、患者が望む医療の実現のための医療側との橋渡し役であり、近年、社会的に関心を集めております。今春、NHK・TV番組にも出演され、その活躍はますます注目されつつあります。昨年に続き、医療の話となりましたが、身近な関心事であり、誰しも避けられない問題です。多くの皆様が真剣に耳を傾けていらっしゃいました。なお、嵯峨崎氏には、演題と同名の著作がございます。参考の為、紹介いたします。
                    
               「命を託す 主治医が見つかる!」日本文芸社

ココをクリックすると嵯峨崎泰子氏講演内容の概要をご覧になれます



スライドを駆使して熱弁を振るわれる嵯峨崎泰子医療コーディネーター




 嵯峨崎泰子さんの講演が終わったところで懇親会に移りました。石倉義朗当会顧問が乾杯の音頭をとられるや、たちましにして座が和み、あちこちに懇親の輪が拡がりました。途中、司会の本田久子さんが60周年記念の出し物として小泉八雲の怪談より”耳なし芳一”の一節”を持ち前の美声で抑揚豊かに朗読し,懇親会に花を添えました。以下に盛会の模様を写真で紹介します。




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報告(HP管理人 福間三郎)