平成30年度第63回東京双松会総会・懇親会報告
平成31年1月 13日
東京双松会第63回総会は昨年10月13日、アルカデイア市ヶ谷(私学会館)で開催されました。参加者は140名に達し(内、平成以降の卒業生が20%を占め)、若さと活気に溢れた総会となりました。 中村康一事務局長(昭和40年卒)が開会の宣言を発せられるや、早速、芦田昭光会長が登壇され、会長としての最後の挨拶を次のように述べられました。
この後、中村事務局長より、活動報告と次期事務局長の糸川孝一(昭和55年卒)氏のご紹介及びご挨拶を頂き、矢田修治会計幹事(昭和62年卒)の会計報告、宮城由美子監事(昭和53年卒)より監査報告が行われ、満場一致で承認されました。
会は順調に進み、恒例の講演会に移りました。
講師は第25代田部長衛門氏(平成10年卒)による「田部家750年 たたら製鉄550年 これからの島根」と題した非常にふるさとに熱い思いを抱かれている田部氏と田部家の興味深い歴史に惹き込まれ、聴き入りました。
ココ をクリックすると講演内容をご覧になれます。(いささか長文です)
田部氏の講演が終るや、糸川新事務局長が乾杯の音頭をとり、懇親会がはじまりました。会の途中、岩井祥平さん(平成22年卒、島根大学特音過程と東京芸大声楽科卒業)のカンツォーネの披露、そして、山根万理奈さん(平成20年卒、バーガーインレコードからメジャーデビュー)のミニ・ライブが行われ、全員で若いエネルギー溢れるライブを楽しみました。 以下に総会・懇親会の模様を任意で選んだ写真でご紹介します。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() そして、オペラ歌手の大岩篤郎氏(昭和42年卒)のリードで「赤山健児の歌」と校歌「山脈浮かびて」を合唱し、大変な盛り上がりの中、最後に井原勝美新会長(昭和44年卒)の閉会の挨拶、無事閉会しまた。
![]() 井原勝美新会長の閉会のご挨拶 今回はかなり若い人もふえ、本当に楽しい良い会になったと思います。本当にたくさんのご参加頂きありがとうございました。来賓の方ですが、小山校長先生を初めとして、松江から、あるいは近畿から、そして広島からたくさんの方、お忙しい中お越し頂き感謝申し上げます。
芦田会長からご紹介ありましたが、少し補足させて頂きますと、昭和44年北高20年の卒業で校舎は川津にありました。1学年11ルーム、1ルームが大体50人、ぎりぎりこれ以上入らないぐらいの机を入れて勉強、あるいは運動に励んだ時期です。今は川津に校舎はなく赤山ですが、私はたまたま一中卒業生で、当時、一中は赤山にありまして、今の北高に行っても大変懐かしい思いがします。人によっては自分が学んだ校舎はどこに行ってもないのではないかというように少し寂しい思いをされる方がいらっしゃるかもしれませんけれども、幸いなことに私は赤山には大変なじみがありまして、今でも松江に帰るたびに今の北高にお邪魔させて頂いている次第です。 我々昭和44年の卒業生は、学園紛争真っただ中の卒業で、浅間山荘事件とか、安田講堂事件とか、そういったきな臭い時代をちょうど卒業式を迎え、大学以来こちらで過ごしています。 高校時代は多少勉強しましたが、専ら運動のほうに精を出し、当時島根県は全国の中でバスケット王国だったのです。地方大会、工業と北高いつも双璧で、大体どっちが勝っても全国大会でいいところまでいくというような時代でした。私の時代はたまたま2年のときですが、全国4位の成績をおさめ3年のときにはこれはもしかしたら?と思ったが予選で松江工業に残念ながら1点差で負けました。その年は松江工業が全国制覇し、本当に島根県で優勝すると全国で優勝できるかもしれない、そういった本当によき時代でありました。ただ、その後、大変すぐれた、我々はセンコウ先生といっていましたけれども、退職され、工業にはワタナベ先生という名監督がおられて退職されて、バスケットの重心は能代工業のほうに移っていった。その後、全国的には精彩を欠いたかなという時代を過ごしました。大変充実して楽しい北高生活を送らせて頂いた。卒業後、約三十数年にわたってソニーでオーディオ、ビデオ、テレビ等、比較的皆さんのなじみのある事業をずっとやっていまして、これも大変楽しい経験をさせて頂きました。最後の9年ほどは、今度は余りなじみがない金融事業を致しました。ソニー生命保険、ソニー銀行というインターネット銀行、それからソニー損保という自動車保険の事業をやっていて、それも大変楽しい経験をして一昨年退職いたしました。これからちょっと遊べるかなと思っていましたら、ことしの6月から縁があり日立製作所の社外取締役を仰せつかった関係で、今夏、安来市の日立金属安来工場にお邪魔しお話を聞いてきました。もちろん工場があるというのは子どものころから知っていたのですけれども、一体どういうことをやっているのかというのは全くわからなくて、大変おもしろかったのです。本日、田部さんのお話しの「たたら」と非常に密接に関係がありますから、若干ご紹介させていただきたいと思います。安来工場は3,500名ぐらいの日立系の中で最大の工場です。鉄道の山手側と海側に巨大な敷地があって、非常に大きな工場で、まずそれでびっくりしました。つくっているものは、かなり特殊な金属、日立鋼といわれるぐらい、例えばシェーバーの金属とか、航空機に使われる一部の金属・汎用品ではなく非常に特殊に使われているような鉄をつくっているそうです。 そもそもなぜ安来にそんな工場が生まれたのかということに興味があったのですが、これがたたらと密接に関係があり田部家がつくったたたら鉄というのを全国に輸送するのですが、当時の安来は天然の良港で、全国へのたたらの物流は安来港から運んでいたそうです。瀬戸内海もそうですし、北のほうに航路がみえたときには北への航路も全部安来港を経由してたたらというのは全国に輸送していたと。ディストリビューションの拠点だったそうです。しかしながら、さっき田部さんのお話にありましたように、たたら鉄の衰退とともに安来も衰退していったという時代があったそうです。
それを救ったのが、いわゆる日産コンツェルンの創業者である鮎川義介さん。日産コンツェルンの創業者がこのたたらの鉄の話をお聞きになって、これはやはり日本に残さないといけないというようにすごく感じられて、そして安来にたたら鉄の文化をそのまま残すとともに、新しい鉄の製造拠点をあそこにつくろうということで、今日の日立金属の原型がそこに生まれたそうです。本人は戦前に、いよいよ満州で事業を興そうということで満州に行かれたわけですけれども、その際に工場の権利を当時の日立に統合して、それで今日の日立金属の原型が生まれたと伺いました。 あそこに巨大な工場があるというのは、田部さんたちの先代がやられたたたらのディストリビューションを基礎としてそこで発足したという話を聞いて、田部さんのお話を伺いながら、そうだったのだろうなという話がすごく心の中で響いたわけであります。近くに和鋼博物館という博物館がありますので、そこはたたらをどうやってつくるのかというたたらの歴史が非常にわかりやすく展示されておりますので、吉田村の帰りにぜひそこも訪れてみられたらいいのではないかなと話を聞きながら思いました。 最後に、このたび東京双松会の会長を芦田さんからお引き受けすることになりました。錚々たる先輩がいらっしゃる中、指名され非常に責任を感じておりますが、同時に一生懸命この会を盛り上げるべく、これから頑張っていきたいと思います。糸川さんが新しく事務局長になられますので、一緒に若い方も参画を求め、またこういった総会も来てよかったなと皆さんに思っていただけるように総会運営も少し工夫し、これからこの会を盛り上げていきたいと思っておりますので、皆さん、どうかこれから先のサポートをぜひよろしくお願いしたいと思います。 これで今回の総会をお開きとさせていただきます。今日ははいろいろなところから、遠方からご参加していただいた方が多々いらっしゃると思います。どうも本当にありがとうございました。次回また全員とお目にかかりたいと思います。どうぞよろしくお願いします。 報告(HP管理人)福間三郎・嵯峨崎泰子
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