(その1)

平成20年11月5日
加田 禮造

馬齢を重ねて来年はついに傘寿を迎える


 幼い時代から軍歌の響きを聞き乍ら、更には大東亜戦争下に徴兵の運命に遭遇して陸軍特別甲種幹部候補生に採用され、合格と同時に終戦となって戦後の大混乱を生き抜いてきたのであり、当時とても傘寿まで生き耐える事など想像も出来得なかったのである。

 それには恩師や学友の支援協力そして友情に基づいて混乱期を乗り越え、社会に出ては未曾有の敗戦下に在って職域の大同団結の下、世界に冠たる生産実績を揚げて経済大国に君臨せしめたハングリー精神から発生した根性と共に徹底した倫理が在っての事でもあった。
 現在の世相から見れば考えられない程純粋であり、社会通念の立派な存在が経営者にも亦社員にも共通したものがあった。


飛鳥船上で
 小生も平成16年春、己の人生を顧みる機会を得る為に、女房と共に世界一周の船旅(北回り)したが、自然の悠大な大海原に接して「己の如何に微小なるか」を悟った。
と同時に、この喜寿の歳に改めて過ぎし日に、お世話になった方々への感謝の気持ちが沸騰したのである。

 顧みれば我々の家庭でも、学舎でもそして職域でも本当に周囲が精神的に幸せな方に導かれて居た結果である事が判る。
 翌17年は女房の古希記念に南回りで一周の予定であったが女房が風呂場で転倒して骨折休養や、小生の体調不良の為「飛鳥」の近海クルージングに省略したが、それでもあの航跡を、己の人生行路に重ねてみれば、大変貴重な反省の機と感謝の念が一杯であった。

 そんな感謝の最中で在っても、己の運命は刻々と変化してゆくのである。それが人生でもある。

 「飛鳥」を下船した途端かねてから不信に思って居た体調不良を、家族の皆々から指摘され、遂に診察を受けたが、即刻入院の必要を宣告され、患部の写真を見るに及んで、自ら「これは癌ですネ」と認め、率先して「摘出手術を受けましょう」と即刻認めた。

 一般論で云えば、癌というと死刑宣告を申し渡された様に衝撃を受け、本人は勿論家族も既に死を迎えた様になっている、だから癌だと申し渡さないように頼んだりする。
然し実際は死神の足音を聞いて日々を暮らすのは事実でもあるが、癌になった以上は仕様がないのである。クヨクヨせず、与えられた余生を如何に有意義に生きるかを考えるべきである。

 小生は癌といっても全然恐怖とも思っていない。
 アッやっぱり癌だったのか!「よし。早く手術して・・・どのぐらい寿命があるかな。」慈恵医大の医師団も驚愕していたが「あまりの認識度抜群で、医師団が扱い易かった」ことは勿論理由もある。

 即ち弟も医者、その長男も次男も医者、特にその次男の甥は現在、慈恵医大勤務、事前に彼から知識は受けているから、覚悟の程は既に出来ていたのである。
 従って、他の患者方の様に「癌という事は一切言わないで呉れ」と嘆願するような事は全くない、放射線治療でも癌治療という事は禁句であるという。
 摘出手術をした担当医師は自信を以って「加田さん五年は保証します」と言っておられるが、小生個人は「直腸癌は摘出されたが、小腰に手術出来ない癌が残置しているから一年は大丈夫としても、二年が勝負か?」と言えば、弟は「二年は大丈夫だろう」と、又放射線担当医師は「最悪の場合は一年、あと運が良ければ二年か三年、しかもそれは運が良ければの話である」と誠に正直である。病室でも診察室でも大声で「己の寿命」を語り合っているのは小生一人である。

 従って、総括すれば「最悪の場合は一年であるが、大体二年は大丈夫、運が有れば三年の寿命がある」。
 と言う段取りの時に突然CT検査の結果、「至急連絡乞う」と留守番電話に慈恵医大から連絡があり、翌日出頭したら即刻入院の要請があった。院内で動くのも車椅子で看護婦付きの待遇で、兎に角絶対安静の御下命。というのは「大動脈解離」の宣告であった。

 小生も驚いたが、若し斯かる症状があったととしても「古傷であろう」との確信はあった。
 三月に十日間の入院した結果、どうも古傷らしいという事になったが、これは無駄ではなく、過去そのような症状があったという事実が判っただけでも大変参考になった。
 癌は一年、二年の寿命云々されるが、大動脈解離は、二分か三分の勝負である。
 現在は抗癌剤も放射線治療を終え血圧を降げる薬を服用している。
 大体の症状は記述の通りで、従ってもう長い人生がこれからある訳ではないから、欲も得もないといっても過言ではない。

 そう云い乍らこの現在になっても未練や見栄が出て来る事もある。
 勿論、悟りも開いているが、人間というものは仕様のない動物であると思う今日この頃である。
 さて、17年春以来作詠の心も頓に乏しく、短歌から遠ざかっているが、それでも病床に在って僅かな小詠を記したから各位の御批判を頂戴出来れば幸甚に存じます。(続く)