(その3)

平成21年1月1日
加田 禮造

『 人 生 』


        「嘆くな」と妻子を諭し淡々と
                 残す短歌を(したた)めたりき

        死す迄にいかに生きむか悩みしが
                 漸く悟りて秋の晩酌

        財もなく何も成さざる人生に
                 耐え忍びたる妻の愛しき

        亡き父母に「戴きます」と晩酌す 
                 余慶を謝する夏の夕べ

        わが人生果たせざる事多々あれど
                 後悔は無きと海原見つむ

 この小冊子を夜を徹して記録している朝(平成18年5月14日午前7時半)フジテレビの報道2001夢対談石原慎太郎と曽野綾子の放送中に石原知事が「あの東京オリンピックの時、回転レシーブで(シゴ)きに(シゴ)いた東洋の魔女が優勝するや、大松監督は一人後方へ下がりニッコリ微笑んで居られて、男の美学を見た」と回顧談に花を咲かせておられた。
    
 大松監督の事といえば、過ぎし日に国際文学者エドワード・G・サイデンステッカー先生(川端康成著を翻訳してノーベル賞受賞に貢献)は、「大松は日本の宝である」と喝破され、丁度臨席に居た小生と大松博文氏の関係を知って激賞し、それ以来サイデンステッカー先生とも交友が続いたのである。因みに大松さんとの関係を申せば、小生は昭和22年春大日本紡績に入社し、尼崎工場の社員寮から大阪本社に通勤していた。

 大松さんは同年秋シンガポールから陸軍少尉軍服姿(肩章ナシの)で復員されたが、翌日から女子従業員を集めてバレーの訓練を開始した。小生は本社から帰寮すると、25米プール(各工場には全部あった)で尼崎工場の従業員を指導した。そして東京製絨工場、東京工場の勤務から大阪本社へ復帰した昭和28年秋、小生は当時の小幡専務取締役にオリンピックに備えて水泳チームの編成を具申したのである。それには競泳用の50米プール新設(当時100萬円の見積)条件であった。ところが、大松さんはバレーボールチームの編成を申請したのである。しかも竿2本立てて網を張れば経費は不要と言えば、勝負は既に決まってしまった。(しかし後日大変な経費が必要となった事は申す迄もない)そんな縁で大松さんとは親しくしていた。そして大松さんは松江中学は「紅陵クラブ」で排球大会で全国制覇した事も知っていた。
 又、昭和38年モスクワでの世界バレー大会で、ソ連チームを破って優勝した時、モスクワの日本特命全権大使の門脇秀光大使が松中出身でお祝に大歓迎された事を感謝された。

 大松さんが佐藤栄作首相に懇願されて参議院選挙に出馬された時は、大反対して意見具申したが、出馬して150万票獲得の最高点で当選された。参議院議員を辞められた後は、小生が引き受け当時ママさんバレーの名誉会長だったので、ママさんバレーの特訓に東京各区、各県へ二人で巡回指導したが、凄い反響があり大変感謝されたのであった。欲のない世界一のバレー職人であった。
 
 韓国や中国、特に中国は周恩来首相の親書が届けられての指導であるから、勿論、国賓待遇であった。現在誰にも喋った事はないが「鬼の大松に(ホトケ)の加田!」と評を取ったが、もう過去の話になってしまった。

  昭和53年11月24日岡山出張中に亡くなられた。大松さんは57才、加田は50才の時である。時偶、東洋の魔女や大松監督の話題がテレビや新聞に出るとなつかしく偲ぶ今日この頃である。サイデンステッカー先生との縁は次回に回そう。 (続く)